クレタ島 クノッソス宮殿

紀元前2000年ごろ、クレタ島だけで栄えたミノア文明と呼ばれるヨーロッパ最古の文明を築いた人たちがいた。身長は150cmぐらいと小柄で、平均寿命は40〜50年だった。人種はわかっていないけれど、現在トルコのある小アジアから来たとも考えられている。色んな人種がいて、階級制度もあったようだ。文字もあった。この宮殿には宗教のために使われる西側の3階建と、政治をつかさどる東側の5階建の建物とその中央には中庭があって、城壁がなかった。戦争のない平和な生活を何百年も営んでいたからだ。王は政治と宗教両方の最高権威者だった。宮殿にはミノス王、王妃、その周辺には1000人もの人々が住んでいて街が形成されていた。この文明は約700年続いたが紀元前1400年ごろの大地震、そして同じ頃にギリシャのペロポソネス半島から来た戦闘好きなミケーネ文明の人々に侵入されて終わりを告げた。

ミノアという名前は王ミノスにちなんでいる。ミノス王の名前はギリシャ神話にクレタ島の王として登場するが、この神話によるとミノタウロスという頭が牛の怪物を迷宮(ラビリンス)に閉じ込めたという一節があって、そこから「ラビリンス」が迷路や迷宮という言葉になったので、ここクノッソス宮殿が迷宮なのかと勘違いされるようだが、あれは神話の話で、「ラビリンス」とはここで宗教儀式につかわれる両刃の斧(labrys)が語源だという。

信仰の対象はガイア、地球だ。女神ガイアへの捧げ物は、水、オリーブオイル、蜂蜜、ワインなどの液体だった。地に浸透するから。なるほど。この壁画の右下、青くて長い容器は下が空いていて入れている液体が地面に落ちるようになっているとか。

水は豊富にあって、12km離れた山から水を引く水路、飲水用に陶器でできた細い水路、貯水槽もあった。港からの距離は約5kmでエジプトとの交易もあったので、港からの交通路も整備されていたという。交易は物々交換。エジプトからはこの宮殿にも使われているアラバスターを運んでいた。クレタ島からの交易品はワインやオリーブオイルで、これは今も同じ。

牛は神聖なものとして扱われ、生贄にされていた。角の形をしたデザインが塀の上部にあったり、雄牛の頭部の形をした陶器が儀式に使われていたりした。牛飛びの儀式とかもあったようで、雄牛は重要な意味を持っていた。

この土地は当時はトロピカルな気候で樹木が豊富にあったが、大量の伐採で今では樹木は少ない。地震の多いこの土地らしく耐震用に宮殿の柱には木材が使われていたという。強度を増すために木材と石の両方使われていた。

復元された柱の写真、これは元々木材(糸杉?)でできていた。壁は石と木材(横に長い部分、現在はコンクリートで復元されている)の両方が使われていた。

以上、ガイドさんから聞いた話を忘れないうちにざっと書いてみた。

もう一度年代を確認する。このミノア文明は紀元前2000年ごろから約700年栄えた、ヨーロッパ最古の文明だ。4000年も前の人たち。日本だと縄文時代後期。縄文の人たちもそうだけど、ここも戦争のない平和な暮らしをしていた人々だ。同じ頃に同じような文明の人たちが地球の裏側にいた。ここの人たちの残した壁画は楽しくて美しく、躍動感満載だ。惹かれる惹かれる。たぶん昔に見て惹かれていて、だから何だか懐かしいような。やっと来れたけど、また来たい場所。

壁画や建造物の一部は発掘者のアーサー・エヴァンズが20世紀初頭にその財力を持って随分と復元していて、写真がいろんなところに掲載されているので有名だ。ただし復元がなされてしまったため世界遺産に申請はなされているけどまだ登録にはなっていない。ここに使われているレプリカの壁画の本物は考古学博物館にあって、そこには来週行く予定。本物を見たらまた喜んで書けることが増えるはす。

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